【結の仕事術vol.8】「前例がない」は理由にならない
今までにない新しいことを始めるとき、それが成功するかどうかは誰にも分からない。そうしたとき、「前例の有無」が指針になると思いがちだ。
だが、どこまでさかのぼっても 「前例」が見つからなかったとき、どうするか。巨額の版権料を前に考えあぐねる。そこで発揮した「結」とは。
誰もが憧れる世界的なスター
サッカーに詳しくなくても、その名を知らない人は恐らくいない。デビッド・ベッカム。 言わずと知れた英国が生んだサッカーの名選手であり、世界中に知られる大スターだ。
サッカーファンはそのプレーに魅了され、サッカーに興味がない人はそのイケメンぶりに惹きつけられる。2013年、惜しまれつつ引退。その後はモデルとしても活躍するなど、サッカー以外の活動でも話題になっている。
今年の全英オープンテニス大会では、観客席まで飛んだボールを観戦中のベッカムがキャッチしたことが、世界を駆け巡る大きなニュースとなったのも記憶に新しい。まさしく何をしても話題となり、そして絵になる男だ。
2003年のこと。ベッカム人気はすさまじいものがあった。多くのCMに登場し、そしてたくさんの本が出版されていた。
「わが社でもベッカムの本を出したい」
恐らくほとんどの出版社で働く者がそう思っていたにちがいない。しかし、それは簡単なことではなかった。なぜなら、ベッカムの版権料が異常と思えるほどの高値だったからだ。
「版権」という言葉はよく耳にすることだろう。だが、「版権」という権利が法律上あるわけではない。出版の世界では著作権や知的財産権、そして肖像権をまとめて「版権」と呼ぶのが通例になっている。
「うちからもベッカムの本が出せたら……」
多くの出版人がそうであるように、当時扶桑社に勤務していた私もそんなことを考えていた。
制作費節約のウルトラC
出版エージェントにあたってみると、とても良い本が売りに出ているという。それが『ベッカム:マイ・サイド』。
ベッカムが自らの人生を書いた自叙伝だ。
これは売れるに違いない。そう確信した。しかし、大きな問題があった。版権料だ。ベッカムの人気に自叙伝だということも加わって、異常と思えるほどの高値だったのだ。
ヒットは確実だが、版権料を上回るほど売れるのか。会社の上層部がなかなか首を縦に振れなかったのも、無理はない。
ヒット確実の本を見送ることはできない。版権料を値切ることは不可能だ。何とかならないかと考えあぐねていたとき、ふと雑誌のことが浮かんだ。
雑誌は企業の広告を入れることで制作費を賄っている。それと同じ手法が書籍でもできないかと考えたのだ。
いうまでもなく、書籍に広告を入れることはできない。そこで一計を案じ、広告ではないがなんらかのスポンサーがつけられないかを考えた。当時はベッカムブームで、たくさんの企業がテレビCMや新聞、雑誌の広告にベッカムを使っていた。
そこで、ベッカムをキャラクターとして使っているスポンサーのところへ行き、広告で使用している写真を本の巻末に使用させてくれないかと直談判した。
商品名は入れられないので、こちらが使用料を請求されるような話だ。しかし、その写真は見た瞬間に誰もがその商品が頭に浮かぶくらい、有名な一枚だった。つまり、商品名や企業名がなくても広告と同等の効果があると言えるのだ。
先方の企業もその効果を認めてくれ、編集協力費という形でお金を頂くことができた。
そのお陰で『D・ベッカム自叙伝 ベッカム:マイ・サイド』を世に出すことができた。
書籍に広告を入れることはタブーだったため、この手法は前代未聞のものだった。
しかし、「やったことがない」「前例がない」ということでも、どこかに実現できるヒントがある気がする。
「前例がない」とは、決して「不可能」と同等ではない。むしろ新しい価値観が生まれる源ではないだろうか。
※この「結の仕事術」は、雑誌【経済界】にて2015年5月26日号から2016年4月5日号までの11ヶ月、22 回にわたって連載されたものをHPに転載しているものです。